土本典昭主要作品   原発切抜帖


原発切抜帖


記録映画 カラー 16%45分 1982年 製作:青林舎


製作:山上徹二郎米田正篤 企画・演出:土本典昭  監修:高木仁三郎 西尾漠   語り:小沢昭一   音楽:高橋悠治と水牛楽団  撮影:渡辺重治  撮影助手:清水良雄 平坂政一

録音:久保田幸雄 ネガ編集:加納宗子 タイトル:坂口康 台詞:長瀬末代子  資料構成:井上敦子 神原聡 北村小貴子 土本亜理子 二宮敬嗣 能勢剛 はりうたかし 藤本幸久

取材協力:東京大学新聞研究所   協力:香内三郎 高岩仁 武川五平 平川千宏 前田勝弘 山内登貴夫 岩波映画製作所 風の会 プルトニウム研究会 タイトル撮影:菁映社 

録音所:青山録音センター  現像所:ソニーPCし  製作部:高木隆太郎 金子和恵 清田秀子
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解説
 1980年代の初めからヨーロッパに再燃した反核運動は、1982年日本の各界にもおよび、急ピッチに反対署名運動などとして拡まった。だがそれは核兵器(当時は中距離ミサイルなど)を対象とするもので、原発批判とは結びついていなかった。この作品の意図はそうした状況に一石を投じつつ、世界唯一の原爆被爆体験国から原子力大国へ駈けすすむ日本の戦後史を記事の早めくりで一息に見直す試みとして映像化された。


 主役は手持ちスクラップと古い新聞資料(東大新聞研・所蔵)である。1945年8月フ日付の広島の原爆第一報はべ夕記事、「焼夷爆弾」とある。ついで[白衣で防空壕に]などとある。
だが終戦翌日の特報には「死に至る放射能障害まで研究済」とあった。核は敵味方をとわず、一貫して秘密にされてきた事実から今日までが暴き出される。これが原子力発電の場合はどうか。

 軽妙な解説は小沢昭一。その語りを裏付ける新聞の見出し内容のクローズアップで、1979年の米国スリーマイル島、1981年の日本は敦賀原発などのパニックを辿り直す。そこに抜
きさしならぬ形で出てくるのは「原発の設計やメカニズムに根本的な欠陥があるとしか考えられない」(カーター大統領)という経緯や、一方日本通産省の「安全基準には違反していな
い」とする発言をくつがえす写真や記事たち。

 原発ジプシーの手仕事で拭われる廃液もれなどの事故現場の実態。ガンや白血病が公認の職業病となったカナダのニュース。被曝死を予定した産業の姿だ。「原発での事故死はない」とする通説をくつがえす爆発死(アメリカ)の詳報が古くは1961年の記事にある。

 原爆体験とビキニ体験、死の灰による第五福竜丸乗組員の死亡こそ原発死の原型ではなかったか。実験地ビキニで当時生まれた子供が27年後、白血病で死んだ。残存放射能の半永久的な毒性の為に島を追われたビキニの人びとの跡を辿る記事。
 
新聞記者の目撃と印象を通じて語られる原子力船「むつ」の放射線もれ、その対策としてのヨウ素入りメシ団子作戦、中性子防止のペレット詰めの古靴下作戦などが生なましい。
 世界の趨勢が、原発の見直し採算上から撤退へと動く中、日本では、時々刻々国内での増設、アジアヘの輸出、そして核兵器への足がかりが作られている。見落されがちの小さなべ夕記事もクローズアップされ束ねられると、そこに原子力大国化への道がはっきり刻印されていた。 廃棄物の休みない貯蔵量の増加-そして海洋投棄の企てそれに猛反発するベラウの人びと。そして太平洋のこの人びとによる「非核憲法」への到達。それにくらべ日本の原発推進、プルトニウム時代への猪突ぶりが悲劇的に浮き上がってくる。
 これは「絵にならない」性質の文字言語、新聞のメディアを下図につくりあげたメッセージ映画の試みといわれるが、しかしこの映画はきわめて実証的スタイルで貫かれている。

天声人語(全文2011/06/21
「先日の小紙連載「終わりと始まりで」作家の池澤夏樹さんが述べている「核エネルギーはどこか原理的なところで人間の手に負えないのだ。それを無理に使おうとするから嘘で固めなければならなくなる」

「嘘」は核をめぐるキーワードの一つだろう。東京の岩波ホールで緊急上映中の記録映画「『原発切抜帖』と「いま原子力発電は…」は見ると、産官学のゴマカシがよく分かる。ともに30年ほど前の作ながら、今の惨状を予言するようだ。

新聞記事だけで構成した『原発切抜帖』は、広島への原爆投下から始まる。何が起きたか軍や学者はわかっていた。だが第一報は「若干の損害蒙った模様」。時代も事情もことなるが、目下の原発事故の情報開示に通じるものがある。
菅内閣の常套句の「ただちに影響もない」も欺瞞がにおう『切抜帖』を撮った故土本典昭監督は当時語っている。「恐ろしくなったのは(放射線を浴びた人たちが)20年、30年の後に、病み死んでいっている、その時差でした」。長く体内に潜む「時限爆弾」の怖ろしさである。

嘘は魔物で、ばれぬように上塗りが要る。西洋の古言では、一つの嘘をつき通すには別の嘘を20発見しなくてはならないそうだ。安全神話の正体はそれだったろう。何が嘘でなにが本当か、もう当時者にもわからなかったのではないか。

原発の是非は、54基が存在する現実からではなく、原爆の非人間性まで立ち返って考えたい。未来に何を渡すか。この分かれ道、いささかも悔れない。
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